ネタバレ情報/征服者
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1 (2008-10-25 (土) 01:15:47)
2 (2008-10-25 (土) 02:11:08)
征服者と抵抗者
ゲーム中では歴史がかなりマイルドに修正されている。
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フランシスコ・ピサロ
1471年-1541年
イスパニアのコンキスタドール。インカ帝国を征服した。
下級貴族の私生児として生まれた。
1498年 イタリア戦争に参加。
1502年 エスパニョーラ島へ渡る。(ラス・カサスと同じ年)
1513年 バルボアのパナマ遠征に同行し、太平洋に到達。
その後、探検家ディエゴ・デ・アルマグロと共に、何度か南アメリカを探検し、ペルーのインカ帝国の存在を知る。
アルマグロは後にアンデス山脈を横断し、コピアポを発見する。
1528年 本土に戻り、カルロス1世(カール5世)からペルー支配の許可を取った。
1531年 本土で募集した兵士を率いてパナマを出港し、ペルーへの侵入を開始した。
1532年 自分たちはキリスト教を広めるための平和使節であるという偽りの書簡を届け、インカ帝国皇帝アタワルパと会見し、その場で生け捕りにした。
身代金として、莫大な金銀を受け取ったが、反乱を恐れて翌年に処刑。
1533年 インカ帝国の分裂を利用し進撃し、首都のクスコに無血入場。
1535年 新首都としてリマを建設。
1537年 支配地の分配を巡ってアルマグロと内戦になり、結局は両者とも共倒れになった。
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アタワルパ
1502年-1533年
インカ帝国の実質的な最後の皇帝。名前の意味は「幸福なニワトリ」。
父ワイナ・カパックは自らの母の出身地であるキトを愛し、帝国の第二の首都としたため、晩年には貴族がクスコ派とキト派に分かれ対立していた。
父の死後、本来の皇太子であった兄がすぐに父と同じ病気で亡くなると、帝国は異母兄弟のワスカルとアタワルパで分割された。
ワスカル:クスコ派、正妻の子で兄
アタワルパ:キト派、側室の子で弟
常識的に考えればワスカルが帝位に就くはずだが、アタワルパは背き内戦が始まった。
当初はワスカルが圧倒的に優勢でアタワルパを捕らえたが、脱出し再起したアタワルパがワスカルを捕らえ、皇帝の座についた。
しかし、ピサロの奇襲に敗れ、部屋一杯の金銀を身代金として支払うが、約束は守られず処刑された。
理由は「自らの兄を殺してイスパニア人を不快にさせた」というものであった。
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エルナン・コルテス
1485年-1547年
1502年 法律家を目指したが叶えられず、新大陸に渡りディエゴ・ベラスケスのキューバ征服に参加した。
1519年 コルテスはキューバ総督になったベラスケスの命令に違反して兵を率いてヴェラクルスに到達すると、アステカの宿敵であるトラスカラ人と戦い和睦して同盟を結んだ。
命令違反:メキシコの占領と自身の領有権を主張したため。
ケツァルコアトル神の化身と勘違いされたコルテスは、アステカ王モクテスマ2世に「国をお返しします」と言って丁重に迎えられ、アステカの首都テノチティトランを案内されて見学し、アステカが意外と強力であることに気づいた。
かつてテスカトリポカ神(生贄推進派)に追われた白い肌を持つケツァルコアトル神(生贄禁止派)が戻って来るといわれた年が迫っていた。
帰還したケツァルコアトルが古い世界を破壊して新しい世界を建設すると信じられていた。
このとき、血塗られた神殿も案内された。まだ動いている心臓が銀の皿にのせられていたという。
弱腰を貴族達に責められたモクテスマ2世が、前言を翻してイスパニア人に立ち去るよう要求したため、コルテスは、部下のアルバラードとわずかな兵をテノチティトランに残し体制を整えるために引き返した。
コルテスはヴェラクルスでキューバ総督追討軍に夜襲をかけて破ると、その生き残りを味方に引き入れ、トラスカラ人を引き連れて再びテノチティトランに戻って来た。
翌日、イスパニア人による生贄の禁止に怒ったアステカ人が反乱を起こしモクテスマ2世を殺すと、コルテスは命からがらテノチティトランを後にしてトラスカラに引き返した。
生贄をやめると太陽が消えると信じられ、生贄に選ばれることは名誉なことであった。
→球技に勝ったチームが生贄にされるほど。(T.P.ぼん)
アステカ人はモクテスマ2世のあとに新王クイトラワックを選んで団結していたが、イスパニア軍が持ち込んだ天然痘が蔓延して、在位わずか80日でクイトラワックは死亡し、25歳の勇敢な戦士クアウテモクを王に推戴した。
1521年 コルテスは5万余のイスパニア兵・トラスカラ・テスココの連合軍を率いてアステカに侵入すると、メキシコ中央盆地の都市を攻略して、テノチティトランを包囲した。
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ペドロ・デ・アルバラード
1485年-1541年
イスパニアの探検家、コンキスタドール
下級貴族の家に生まれ、新大陸に渡航。
キューバ島征服、ユカタン半島探検に参加
その後、コルテスの遠征隊に加わり右腕的存在となった。
道中のトラスカラの地で首長の娘(ショチトルのモデル?)を与えられ、その事によりその地の人々も遠征隊に加わった。
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クアウテモク
1495年-1525年
アステカ帝国の最後の王。名の意味は「急降下する鷲」→”鷲の戦士団”
1521年 コルテスがテノチティトランを包囲すると3ヶ月の攻防戦に耐えて勇敢に立ち向かったが、脱出を試みるもイスパニア軍に捕らえられて降伏しアステカは滅んだ。
彼はコルテスの短刀を指さして自分を殺すように言ったが、コルテスは彼を殺さず、勇者として手厚くもてなした。
しかしそれは始めのうちだけで、黄金の場所をつきとめるためにコルテスは彼を拷問にかけた。
1525年 反乱を企てたとの疑いによりコルテスによって絞首刑に処された。
現在のメキシコでは国民的英雄であり、メキシコシティ(テノチティトランが破壊された跡に建てられた)には彼の銅像が建っている。
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マリンチェ
コルテスのアステカ征服に協力した。
彼女はコルテスに献上された後、その肉体と知性でコルテスを篭絡し、彼の参謀兼妾となる。
ナワトル語、マヤ語双方に通じており、通訳としても多大な働きをした。
現在のメキシコでは売国奴、淫売の代名詞ともいえる人物である。
しかし、家が没落しマヤの領主の妾として売り払われたという境遇であったため、フェミニズムの観点から彼女に同情的な意見も見られるようになってきている。
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バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア
1475年-1519年
イスパニアの探検家・植民地政治家
貴族出身ではあるが、貧困にあえぎ新大陸の開拓地へ乗り込む。
食糧不足や先住民の襲撃に悩む植民都市でリーダーシップを発揮し、総督に任命される。
(”兵器技術”,”狙撃術”)
1513年 黄金郷の噂を地元の酋長から聞き、探検隊を組織する。
財宝は見つからなかったが、パナマ地峡を横断し太平洋を発見する。
探検隊の部下にフランシスコ・ピサロがいた。
しかし探検中に略奪や虐殺をしたことが明らかになり、危惧を抱いた本国政府は新たな総督ペドラリアスを送り込む。
後にパナマ地峡の太平洋岸にパナマ市を建設する。
1519年 当然のごとく彼とはそりが合わず、かつての部下ピサロに捕らえられ…
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バルトロメ・デ・ラス・カサス
1484年-1566年
セビリア生まれの司祭で、「インディオの使徒」と呼ばれた。
コロンブスが新大陸=インドと思い込んだため、先住民はインディオと呼ばれた。
1502年 父と兄弟がコロンブスの第二次航海に同行した影響を受けて、エスパニョーラ島(サントドミンゴがある島)へ渡る。
先住民の反乱鎮圧軍に加わり、その後、先住民を使役して農場を経営した。
(”管理技術”)
1506年 セビリアに戻り、下級司祭の資格を得る。
1511年 サントドミンゴ在住のドミニコ会員モンテシーノスが、イスパニア人の先住民に対する不当な扱いを初めて非難した。
清貧を特に重んじたため「托鉢修道会」とも呼ばれる。
会員は神学の研究に励んだため、異端審問官に任命されることが多く畏怖された。(有罪=火あぶり)
これは王室をも動かし、保護法案が制定された。
ただし現地での実効力がなかった。
1512年 友人であるディエゴ・コロン(コロンブスの息子)のキューバ島征服軍に従軍司祭として同行。先住民の虐殺を目にし、激しい良心の呵責を感じる。
この時の指揮官は悪名高いディエゴ・ベラスケス
以後、ドミニコ会に入会し、会員と共に先住民の調査・保護活動を開始し、カール5世に陳情するなど、新大陸政策を大きく変えていく。
主な著作『インディアス史』、『インディアス文明誌』、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』
(”コルテスという男”,”ナワトル語”)
この後、ポルトガルでは合法の奴隷収集がイスパニアでは非合法になる。
ポルトガルから買うことは合法。
そして約200年後の時代を描いたものが映画「ミッション」である。
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ウアレオ酋長
おそらくはアトゥエイ酋長がモデル
????年-1512年
元々はエスパニョーラ島の酋長でイスパニアの征服に対する抵抗活動をしていた。
しかし戦況不利になったため一族と共にキューバ島に脱出し、危機を伝え迎撃の準備を整えた。
1512年 イスパニア軍が上陸すると、敵をジャングルに誘いこみ奇襲をするゲリラ戦で苦しめた。
しかし、3カ月後に仲間の裏切りにより捕まり、火刑に処せられる。
その時のラス・カサスとの問答
「悔い改めキリスト教に改宗すれば天国に行けるぞ。」
「それで、天国にはどんな人がいるのかね?」
「キリスト教徒なら誰でも行ける。」
「それはお前たちもみんないるのかね。そんなところに死んでまで行かなければならないとしたら、おれはキリスト教徒になりたいとは思わないね。」
アトゥエイはキューバの伝説的な英雄となり、ビールの有名ブランドにもなっている。
http://www.hatuey.com/
10年前に伝説の冒険者と出会う。(”謎の光”)
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フアン・ディアス・デ・ソリス
1470年-1516年
イスパニアの探検家、コンキスタドール(征服者)
ポルトガル人のジョアン・ディアス・デ・ソリスとして生まれた。
1504年 イスパニアに亡命(理由不明)
その後、航海士としてフロリダやユカタン半島などを探検。
1512年 アメリゴ・ヴェスプッチの後を継ぎ、主席水先案内人になる。→(”港・集落”)
”アメリカ”の発見者
1515年 バルボアの太平洋発見を聞き、太平洋への水路を求め新大陸を南下。
1516年 ラプラタ川を発見。(”銀と川”)
先住民が銀の装飾具を身につけているのを見て、大量の銀があると誤解して、スペイン語でLa Plata(銀)川と名付けた。
アルゼンチンはラテン語の「銀」(Ag)からつけられた。
そのために1536年に軍事拠点としてブエノスアイレス(きれいな空気)が作られることになった。(本当は銀は産出しない
)
しかし、先住民との紛争で戦死し…
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ミゲル・ロペス・デ・レガスピ
1502年-1572年
イスパニアのコンキスタドール(→”兵器技術”)
別名エル・ヴィエホ(老人)
1526年 地元の町議会議員になる。
1528年 メキシコに渡り、財務局長、メキシコ市長などを歴任。
1564年 太平洋を渡り香料諸島への遠征を命じられる。(62歳)
当時は、ポルトガルの勢力下にあり劣勢だった。
1565年 フィリピンのセブ島に上陸。
付近の町を破壊して入植地を建設。
マゼラン来航の際に、キリスト教に改宗した領主の町もあった。
1567年 増援部隊が到着し、サン・ペドロ要塞を築く。
1569年 高齢のため(67歳)セブ島に残り、部下と兵隊をマニラ方面に進軍させる。
1570年 現地人や中国人の海賊・商人と戦いつつ、マニラ到達。
マニラはイスラム教徒の町であった。
当初は現地人に歓迎されて、イスパニア兵も友好的であったが、ちょっとした争いをきっかけとして、戦闘に突入し一気に制圧した。
1571年 制圧の報を受けてマニラに入り、現地人と平和条約を結びマニラ政府を樹立。
(”イスパニア縁の地”)
初代マニラ総督となる。
キリスト教への改宗を進め、反抗するものは処刑し、協力するものは地主として取り立てた。
1572年 心不全により死去。(70歳)
個人資産は征服・植民活動に全て注ぎ込み、ほとんど残っていなかったという。