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*オスマントルコ [#w2b17c6f]
-大帝スレイマン1世は出自を問わぬ抜擢を行い、空前の領土を獲得したが…

**スレイマン1世 [#dac4a91a]
-1494年-1566年
-オスマントルコ帝国皇帝
-スレイマンはソロモンのトルコ語読み
-父はマムルーク朝を滅ぼしシリア・エジプトを併合したセリム1世
-数多くの軍事的成功を収め、帝国を最盛期に導いたため壮麗帝と呼ばれる。
-1521年 ハンガリー王国からベオグラードを奪う。
-1522年 聖ヨハネ騎士団の拠点ロードス島を占領。
-1526年 モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を破ってハンガリー中央部を平定。
--ハンガリー王は戦死し、王位にトランシルヴァニア公サポヤイ・ヤーノシュを推す。
---ご察しの通り吸血鬼ドラキュラのモデル
--ハンガリー王継承を宣言した神聖ローマ皇帝カール5世と対立。
-1529年 第一次ウィーン包囲、攻略には失敗したが西欧諸国に衝撃を与える。
--カール5世と戦っていたフランス王フランソワ1世と同盟を結び、背後から援護した形になった。
--同じくドイツのルター派諸侯とネーデルランド独立派に資金援助をした。
-1533年 アルジェ海賊ハイレディンを海軍司令官として迎える。
-1534年 ペルシャのサファヴィー朝と戦い、バグダットを占領してイラクとアゼルバイジャンの大半を支配下に置く。
-1538年 プレヴェサ海戦に勝利し地中海の制海権を確保。
--酒飲み@パルマ:ここから東はオスマントルコの領海だ。死にたくなければ引き返したほうがいい。
-1543年 フランスと合同でニースを攻略。
-スイレマンは学問や芸術を好み、詩人でもあった。また建築の分野ではミマール・スィナンを登用し、多くの優れた建物をつくらせた。
-一方で治世の後半では奴隷であったロッサーナを皇妃にしたことから、後継者同士の争いが激しくなり、これが衰退のきっかけとなった。
-1566年 ハンガリー遠征の陣中で没した。政争の結果、唯一生き残った皇子のセリム2世(暗愚)が即位した。

**ロッサーナ [#m13a34dd]
-名前の意味は「ロシア女」
-イスタンブールの街に住んでいるが、実はオスマン帝国皇帝スレイマン1世の寵姫である。
-奴隷出身であったが、”口説きスキル”を駆使し皇妃にまで登りつめ、皇太子を排斥し自分の息子を皇帝にした。
-仕立て師転職クエのサテン製ラフカラードレス発注元の一人。

**イブラヒム [#v208b2ae]
-????-1536年
-オスマン帝国のイケメン宰相
-ギリシャ出身
-キリスト教徒の奴隷から取り立てられ大出世し、内政や外交で多大な功績を上げた。
-皇帝スレイマン1世とは親友同士であり、妹を妻として迎えた。 
-1520年 奴隷として購入したロッサーナをスレイマン1世に献上。
-1534年 ペルシャ遠征の総司令官になり、バグダットを占領。
-1536年 皇太子の後ろ盾であったため、皇妃になったロッサーナにより暗殺された。

**アリ・パシャ [#d2039ee3]
-????年-1571年
-オスマントルコ帝国海軍司令官
-パシャ=閣下という意味なので同名多数。
-セリム2世(スレイマン1世の息子)の小姓から成り上がった。
-1569年 海軍司令官に任命された。
--実力的にはウルグ・アリ(イタリア人)やメフメト・シャーク(アルジェ海賊)に劣るという声はあったが、生粋のトルコ人ということで選ばれた。
--スレイマン1世なら、おそらくこんな人事はしない。
-1571年 レパント海戦で中央部隊の指揮を取り、ドン・ファンと戦った。
--旗艦同士の白兵戦となったが、ジャン・アンドレア・ドーリアの助言を受けてラムを短くしていたドン・ファンの船が高い位置になり、銃撃戦で優位に立つ。
--焦ったアリ・パシャは一騎打ちを挑もうとするが、被弾→転落→捕獲→斬首された。
-レパント海戦イベントでは左翼部隊のオキアーリ(ウルグ・アリ)、右翼部隊のシロッコ(メフメト・シャーク)が撤退し、置き去りにされてプレイヤーに討ち取られた。
--盟主ハイレディンを海軍司令官にするための陰謀

**カラ・メフメト [#b5455d76]
-????-1619年
-オスマン帝国の政治家
-動物のマネをさせたら随一の達人であり、新ネタ作りのためにプレイヤーにコビトカバの鳴き声を聞いてくるよう依頼する。(ハンター転職クエ)
--(”生物学”)

**ヒサール・レイス [#h3e49d02]
-おそらくピリ・レイスのこと
-1465年-1554年
-オスマン帝国海軍の軍人
--(”速射”、”防御”、”銃撃”)
-世界地図、航海案内書の作者でもある。
--ピリ・レイスの地図:オーパーツ説(=南極大陸も書かれている)もある。
-1492年 イスパニアとのグラナダ攻防戦に参加。
-1502年 ヴェネツィアとの戦争に参加し、「船長」を意味するレイスの称号を与えられた。
-1516年 マムルーク朝征服作戦に参加。
-1522年 ロードス島攻防戦に参加。
-1533年 ハイレディンが海軍司令官となった後は、旗下の提督として活躍。
-1547年 紅海を拠点とするインド洋方面艦隊の司令官に任命される。
--マスカット、ホルムズを攻撃しポルトガルの進出を牽制した。
-1554年 作戦中に味方艦が接触事故で沈没、帰投したため任務放棄の罪で処刑された。

**セイディ・アリー・レイス [#i90f2708]
-生没不明
-ピリ・レイスの後を引き継ぎ、ペルシャ湾でポルトガル艦隊と交戦した。
-一度は勝利したものの、ゴアからの増援艦隊に敗れる。
-その後、暴風雨に遭い難破し、陸路で3年半かかって帰国したという。

**アミル・アリ・ベイ [#d8a452b5]
-生没不明
-オスマントルコの冒険家?
-1585年と1588年に東アフリカでポルトガル占領地を攻撃し、大戦果を上げた。
-アリ・ベイは日本でいえば”鈴木氏”にあたるので同名が多い。
--シューベルト作曲:アリ・ベイ哀悼歌(旅行家?)
--和歌山沖で座礁・沈没したトルコの軍艦エルトゥールル号の艦長はアリ・ベイ大佐

**ザーヒル・カーンサウフ [#jb2d6c3a]
-????-1499年
-エジプトのカイロを首都とするマムルーク朝のスルタン
-アル・ガウリもカーンサウフであるが、こちらはカイロ在住。
-アル・ガウリの3代前で「三日天下」だったらしい。

**カーンサウフ・アル・ガウリ [#s73dee4f]
-????-1516年
-マムルーク朝のスルタンであったが、部下のハーイル・ベイの裏切りにより戦死。
-翌年、マムルーク朝は滅亡した。
-ゲーム中ではマスカットに落ち延びた?
--紅海周辺もマムルーク朝領土だった。
-同名の別人である可能性も大。

**ハーイル・ベイ [#l2971355]
-生没不明
-マムルーク朝のメッカ総督
-1511年 風紀を乱すとしてコーヒーの禁止令を出す。
--しかしスルタンのアル・ガウリが愛飲家であり、撤回される。
--この事件によりアレッポ(”ベイルート”付近)の太守に左遷される。
-1516年 セリム1世(バヤズィト2世の息子でスレイマン1世の父)率いるオスマン帝国軍がエジプトに攻めてくると、スルタンに従って出陣する。
-しかし実はオスマン帝国に通じており、戦闘中に寝返った。 
-これによりマムルーク軍の敗北は決定的になり、スルタンも戦死した。 

**チュマン・ベイ [#e0fc0684]
-????-1517年
-マムルーク朝の最後のスルタン
-1517年 アル・ガウリの戦死後、徹底抗戦をしたがアレクサンドリアの南で捕らえられカイロで処刑された。

**ムライ・ハサン [#l97dac14]
-????-1543年
-ハサン・ムハンマド6世
-チュニスを首都とするハフス朝のスルタン
-なんと兄弟44人を殺して王位に就いたらしい。
-1534年 チュニスをハイレディンに攻撃され、一時的に占領される。
-1535年 異教徒のカール5世に救援を求め、アンドレア・ドーリア率いる艦隊は、聖ヨハネ騎士団と合流、チュニスを奪回する。
-1540年 しかし、略奪・虐殺がなされたため住民は離反し、息子により盲目にされ投獄された。
-1574年 ハフス朝滅亡、チュニスはオスマン帝国に併合された。

**レオ・アフリカヌス [#h619fd28]
-1483年-1555年
-ハサン・イブン・ムハンマド
-グラナダ王国の王族出身で旅行家、地理学者
--”港・集落発見”,”生存”,”行軍”,”採集”
-1492年 イスパニアのレコンキスタによりグラナダ陥落、モロッコに移住。
-1512年 ”トンブクトゥ”を訪れ、冒険記を残した。
-1518年 トルコ旅行の帰途、海賊に捕らえられ奴隷としてローマに送られ、ローマ教皇レオ10世に仕えた。
--この時にキリスト教に改宗し、レオの名前を与えられた。アフリカヌスはあだ名。
--レオ10世はミケランジェロ・ラファエロのパトロンであり、ルネサンス文化の最盛期を支えた人物。
--一方で、贅沢好きで浪費が激しく、赤字補填のために”免罪符”販売を認めたことから、ルターから激しく非難され宗教改革のきっかけとなった。
--彼の死後はチュニスに行き、再びイスラム教徒に戻ったといわれる。
-1550年 「アフリカ誌」をヴェネツィアで出版、大反響となった。
-イブン・バットゥータ(三大陸周遊記の作者)を尊敬している。(”壮大な旅行記”)

*イタリア [#ha3994fb]
-統一国家が出来たのは最近のこと。この当時は都市国家同士で抗争をしていた。
**トラジェット侯爵夫人 [#j4d046c1]
-1513年-1566年
-ジュリア・ディ・ゴンザーガ
-北イタリアの名門ゴンザーガ家に生まれた。
-13歳でフォンディ伯爵・トラジェット公爵のヴェスパシアーノ・コロンナ(1480年-1528年:33歳年上)と結婚した。
-その3年後、16歳でヴェスパシアーノ卿は死去、未亡人に。
-彼女は周囲を惹きつける美貌と聡明さを兼ね備えていたので、彼女に言い寄るものもあったがついには再婚しなかった。
-1534年 ハイレディン率いるオスマン海軍が、教皇のお膝元であるイタリア半島の西岸に侵入。
--彼女の居城の近くまでに迫ったが寝巻を着たまま馬に乗って逃亡し、難を逃れたという。
--捕まっていたらスレイマン1世に献上されていた(^^;
-&color(white){フリードリヒ大王の夫婦仲と子沢山を羨む。(”大帝の追憶”)};
-&color(white){闘牛士レスカトールのファンだった。(”レスカトール”)};
-ジェノヴァに住んでいるのにジェノヴァで売っている美術品を届ける謎のクエがある。(”秘密のギフト”)
--事前に誰かから手紙を受け取っているらしいのだが…

**ベロニカ・フランコ [#x5bf6b93]
-ラグーザ在住。仕立て師転職クエのサテン製ラフカラードレス発注元の一人。
-1580年頃にヴェネツィアで活躍した高級娼婦(江戸時代の花魁と同等の地位)。
-教養に優れ詩人としても有名であった。
-映画「娼婦ベロニカ」のモデルである。

**ジャーノ・フレゴーゾ [#e65d92eb]
-モデルはシモン・ポッカネグラ
-ヴェルディによってオペラ化された。
--時代は違うが、ジェノヴァはオペラネタが多い。
--ヴェルディは北イタリア生まれで主にミラノで活動した。
-ジェノヴァは四つの貴族が二組にわかれて内部抗争を続けていた。
--ドーリア、スピノラ組 vs フィエスキ、グリマルディ組
--ドーリア家からは後にアンドレア・ドーリア(傭兵バルタザールのモデル)が出る。
-さらに市民と貴族も対立していて…
--ヴェネツィアは官僚主導でまとまりがあったのに対し、ジェノヴァは個人主義でバラバラだったらしい。
-1339年 市民出身のポッカネグラは自警団と海賊活動で実績を上げ、初代ジェノヴァ総督に選ばれる。
-1363年 彼は内部抗争を治めようとしたが、貴族派に毒をワインに盛られて暗殺された。
-彼の死を境としてジェノヴァの衰退が始まり、その後のヴェネツィアとの戦争に敗れたのが決定的となった。

**国王フェデリーコ [#ta395c64]
-1452年-1504年
-ナポリ王 フェデリーコ1世
-1500年 フランスとイスパニアの間で結ばれたグラナダ協定により、ナポリ王国はフランスとイスパニアに分割されることが決った。 
--フランス王ルイ12世:ベリー女公ジャンヌの別れた夫
--イスパニア王フェルナンド2世:イサベル女王の夫で共同統治者。コロンブスのスポンサーになった。後継者には孫(娘のフアナ女王の息子)のカール5世を指名した。
--グラナダ:イスパニアのレコンキスタ(国土回復運動)で最後に残ったイスラムの拠点。
1492年に陥落した。
-1501年 フェデリーコはなすすべもなく、ルイ12世に降伏しフランスに亡命する。
--フランスから年金をもらって生活した後に没した。
-ナポリ王国はフランスとイスパニアの争いの後、イスパニアの統治下に入った。

**楽士ジェズアルド [#k2e6adbf]
-1566年-1613年
-本名カルロ・ジェズアルド。
-ヴェノーサ公国君主・コンザ伯爵
--長男ではなかったので道楽三昧で暮らしていたが、ひょんなことから君主の座に。
-作曲家で、濃密な表現力に富むマドリガーレ(イタリア発祥の歌曲形式)で有名。
--あまりにも前衛的で20世紀になってから、ようやく再評価された。
-自分の妻と不倫相手の濡れ場をおさえ殺害、我が子も不倫の子と疑い手にかけ悪名を馳せる。
--&color(white){セイレーンの竪琴のせい?("人を惑わせる竪琴")}; 
--不倫に対する報復殺人は違法ではなかったので罰せられることはなかった。
--ただし、被害者側の報復を恐れ領地に引きこもり、重騎兵を雇い警備させたという。
-国王フェデリーコからエル・グレコの絵を贈られた。(”間延びしていない絵”)

**ジェーム王子 [#w1090809]
-1459年-1495年
-ジェム・スルタン
-オスマントルコ帝国の帝位請求者(→”トルコ語”)
-父はコンスタンティノープル(現イスタンブール)を陥落させ、東ローマ帝国を滅ぼした征服王メフメト2世
-父の死後、兄のバヤズィト2世と帝位を争うが敗北し、逃亡する。
-1482年 聖ヨハネ騎士団(ロードス騎士団)に招かれるが、捕まり囚人としてフランスに送られる。
-バヤズィト2世はフランスに使者を送り、弟の身柄をヨーロッパに留め置くことを要求し、身代金がわりの純金を例年支払うことに同意している。
-この後、人質生活をすることになったが、貴族並の待遇をされた。
--バヤズィト2世に対して侵略するのであれば身柄を解放すると圧力をかけられるので、できるだけ健康的に生活できるようにした。
--とはいえ人質生活の窮屈さも感じているようだ。(”ヨーロッパの宝石”)

**シャイロック頭取 [#mb83f66d]
-シェークスピアの「ベニスの商人」から?
-大航海時代2から横すべり的に出演
--難破船を修理して海に乗りだし、十数年で富を築き上げた立志伝中の人物

**ジョルジョーネ [#l3cbd237]
-1478年-1510年
-ヴェネツィアの画家
-本名はジョルジョ
--立派な体格と寛大な精神のためジョルジョーネ(大きなジョルジョ)と呼ばれた。
-師匠はジョヴァンニ・ベリーニ(「ピエタ」など)
-年下のティツィアーノ(「ウルビノのヴィーナス」など)に多大な影響を与えた。
-「嵐」や「眠れるヴィーナス」が有名であるが、生涯に不明な点が多く、作品に後世の加筆が多数あることから存在を疑問視する学者もいる。
--ペストで死亡したために作品も多数焼却されたらしい。
-ダ・ヴィンチがヴェネツィアでジョルジョーネと会ったといわれている。
-「エロイカより愛をこめて」の「ミッドナイト・コレクター」に登場する架空の作品 ”若い牧人” はジョルジョーネ作という設定である。

**モチェニーゴ官房長官 [#y4de10a4]
-1409年-1485年
-ジョヴァンニ・モチェニーゴ
-ヴェネツィアの元首(ドージェ)
-オスマントルコ帝国皇帝メフメト2世(ジェーム王子の父)と戦った。
-貴族なので市民のトップである官房長官には就任できないはずなのだが…

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