ネタバレ情報/NPC西仏
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1 (2008-10-25 (土) 01:42:29)
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フランス
ベリー女公ジャンヌ
フランソワ1世
ギーズ公爵
モンモランシー大元帥
コンデ公爵
ギーズ公アンリ
マルグリット王女
イスパニア
ミカエラ
カール5世
フェリペ2世
ドン・フアン・デ・アウストリア
マリア王妃
タベラ枢機卿
サンタ・クルス侯爵
ファルネーゼ公爵
アルバ公
レスカトール
娘@サンティアゴ
上品な少女@ヒホン
エル・グレコ
街娘@セビリア
フランス
イスパニアと戦うが、内部抗争も激しかった。
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ベリー女公ジャンヌ
1464年-1505年
本名ジャンヌ・ドゥ・フランス
フランス王ルイ11世の娘
オルレアン家のルイ(後のルイ12世)と結婚する。
ブルターニュ公領の相続問題のため、夫・フランス王ルイ12世と離婚後、ベリー公領を相続し女公となる。
このことを小説にしたのが佐藤賢一の「王妃の離婚」
ベリー女公となった後は出家して女子修道会の建設などに尽力し、後に聖人に列せられ、歴史に残った。
このためゲーム中でも修道女の姿をしている。
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フランソワ1世
1494年-1547年
ヴァロア家出身のフランス国王(アンリ2世の父)
ルイ12世(ベリー女公ジャンヌの夫)の従兄弟にして(ジャンヌと離婚後に生まれた)娘の婿。
神聖ローマ皇帝の地位をカール5世と競うが選挙で敗北。
以後、イタリアの支配権を巡りカール5世と戦う。(イタリア戦争)
勝つためには手段を選ばなかったが、ついに決定的な勝利は得られなかった。
異教徒であるオスマントルコ皇帝スレイマン1世と同盟を結んだ。
自身は旧教徒であるのに、ルター派のドイツ諸侯を援助した。
一方で、イタリア戦争の遠征でダ・ヴィンチを国内に連れ帰り保護するなど、文化的な面でも大きな功績を残した。
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ギーズ公爵
1519年-1563年
ギーズ公フランソワ、あだ名はバラフレ(傷跡:戦争で負傷)
ばっちり再現されてるので、マルセイユに行ったときは注目。
旧教派の首領としてユグノー派との内戦を戦った。
ユグノー:フランスでの新教の呼び名、当初はルターの影響を受けていたが後にカルヴァンの影響が強くなった。
1562年、ヴァシーでユグノー派を多数虐殺し、これが内戦のきっかけとなった。
モンモラシー大元帥は政敵であったがユグノー派との戦いのため同盟する。
しかし劣勢になりスペインなどと同盟しようとしたため、ユグノー派のコリニー提督(ネーデルランドと同盟しスペインと開戦することを主張)により暗殺された。
ソムリエ転職クエの納入先
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モンモランシー大元帥
1492年-1567年
本名アンヌ・ド・モンモランシー
イタリア戦争で数々の軍功を重ね、フランス軍最高司令官になった。(→”弾道学”等)
アンリ2世の死後は、摂政になったカトリーヌ・ド・メディチの腹心となり政権を支えた。
1567年 カトリーヌ・ド・メディチがネーデルランド総督アルバ公と新教徒弾圧で合意。
同年、ユグノー派(コンデ公爵が指揮)のパリ占拠を撃退するが戦死した。
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コンデ公爵
1530年-1569年
コンデ公ルイ1世(ブルボン家出身で初代コンデ公)
フランス軍の将軍で神聖ローマ帝国の侵攻を防いだ。
ユグノー派首領でアンリ4世は彼の甥である。
1568年 ネーデルランドの独立派指導者オラニエ公と同盟。
1569年 旧教派との内戦で戦死、コリニー提督が後を引き継いだ。
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ギーズ公アンリ
ギーズ公を継いだ息子アンリは一時亡命していたが、父の暗殺に対する復讐を実行した。
1572年 ナバラ王アンリ(後のアンリ4世、ユグノー派)とマルグリット王女の結婚式に出席したコリニー提督が襲われ負傷した。
旧教派とユグノー派の和解のための政略結婚
その二日後、事件の黒幕と疑われたギーズ公の兵がユグノー派の貴族・市民を攻撃し、コリニー提督以下3000人以上の犠牲者が出た。(サン・バルテルミの虐殺)
ナバラ王アンリも捕らえられ、旧教に強制的に改宗させられる。
以後、この内戦はアンリ4世が即位し、ナントの勅令(1598年)を出すまで続く。
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マルグリット王女
1553年-1615年
本名はマルグリット・ド・ヴァロワ
ナント在住。仕立て師転職クエのサテン製ラフカラードレス発注元の一人。
父はフランス王アンリ2世
ノストラダムスが馬上槍試合での死を予言したといわれている。
母はカトリーヌ・ド・メディチ
イタリアのメディチ家(銀行家)出身、フォークやスプーンを使い食事をするテーブルマナーをフランスに持ち込んだ。(”紳士淑女の行儀”)
フランス
イベント
での”フランスの母后”
後にブルボン朝の始祖アンリ4世と結婚するが、旧教とユグノーの内戦に翻弄される。
彼女自身はギーズ公アンリとの結婚を望んでいた。しかし、他ならぬ彼によって結婚生活は台無しにされる…
幼い頃より美貌に優れ、語学や哲学などにも造詣が深かった。
派手な男性遍歴で有名でもあり、兄達と近親姦の関係にあったという噂もある。
弟フランソワの政界工作のためフランドルに赴いた際、ネーデルランド総督ドン・フアン・デ・アウストリアを魅了し、ドン・フアンは「あれは、男を救うというよりは、破滅させるたぐいの美しさだ」という言葉を残した。
”思い出の首飾り”でのアンリ殿下=父、ポワティエ夫人=父の愛人
眠りの森の王女の伝説についての調査をプレイヤーに依頼する。
私も、できることなら百年待とうとも幸せな結婚がしたいものです。(”オーロラ姫のティアラ”)
デュマの「王妃マルゴ」のモデルである。
冒頭より
ナバラ女王ジャンヌ・ダルブレが、息子アンリをフランス王女マルグリット・ド・ヴァロワと婚約させる相談にブロワに赴いたあと、結婚式の二カ月前に急死したことについて、奇妙な噂が飛び交っていた。恐るべき秘密をジャンヌ・ダルブレに見破られたカトリーヌ・ド・メディチが、秘密が公になることを恐れ、手袋に染み込ませた毒薬で彼女を毒殺したというのである。
この偉大なナバラ女王の死後、息子のアンリの要請で、あの有名なアンブロワーズ・パレを含む二名の医者が解剖をおこなったが、切開は内臓だけにとどまり、脳にまでは及ばなかった。そのため、噂はよけいに広まり、確信をもって語られるようになった。というのも、ジャンヌ・ダルブレが匂いをかいだために毒殺されたとするなら、犯罪の痕跡は、解剖を免れた唯一の場所であるその脳に残っているにちがいないとだれもが考えたからである。
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イスパニア
カール5世とフェリペ2世は空前の大帝国を築き上げるが…
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ミカエラ
バルセロナ出身でフラメンコの踊り手として有名だった。
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カール5世
1500年-1558年
ハプスブルグ家出身の神聖ローマ帝国皇帝
フランスのブルゴーニュに産まれる。
史実ではフランドル地方=現在のベルギー
母国語はフランス語であり、特にパリを好んだが、フランスと戦い続けることになる。
1516年 カルロス1世としてイスパニア王に即位
それまでイスパニアの土地を踏んだことがなく、国土を理解するために市井を巡った。
その時にミカエラに巡り会い、リラを贈るなどあれこれあって子供をもうけるが…
1519年 フランソワ1世を選挙で敗り、神聖ローマ帝国皇帝カール5世として即位。
1521年 ルターを喚問、イタリア戦争開始
1524年 ドイツ農民戦争勃発、さらにルター派諸侯が増加し泥沼化していく。
手一杯になりドイツの政務を弟フェルディナントに委任。
1525年 フランス王フランソワ1世を捕虜にし、フランスが北イタリアにおける権益を放棄するという講和条約を結ぶ。
釈放されると、あっさりと条約を破棄した。
1529年 ウィーン包囲戦
危うくパプスグルグ家の本拠地が陥落するところであったが、補給・天候等の問題でオスマントルコ軍は撤退。
1538年 プレヴェザの海戦でオトマントルコ軍に敗退し、地中海の制海権を失う。
1550年 バリャドリッドでアメリカ先住民の地位についての審議会を開く。
ラス・カサスらの長年の活動が実り、先住民に対する不当な行為の撤廃を目指した非常に画期的なものであった。
フランス、オスマントルコ、新教徒などを相手にヨーロッパ中を転戦するが、疲れはてて修道院に隠棲して生涯を終えた。
イスパニアの王位は息子のフェリペ2世に、神聖ローマ帝国の皇位は弟のフェルディナント1世に譲渡した。
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フェリペ2世
1527年-1598年
1554年 11歳年上のイングランド女王メアリー1世(ブラッディ・メアリー)と結婚。
性格不一致ですぐに破綻。ほどなくして死別する。
その後、エリザベス1世に求婚するも玉砕。
1556年 イスパニア王に即位、父のカール5世から広大な領土と膨大な借金を受け継ぐ。
カール5世が戦争で借金をしまくったため
カール5世とは逆で、宮廷内での書類決裁に専念したため「書類王」と呼ばれた。
1557年 最初の破産宣告、以降も軍事費の増大のため3回することになる。
1559年 イタリア戦争終結、フランスのイタリアに対する要求を放棄させた。
叔父が継いだ神聖ローマ帝国は新教派と和議を結んだが、熱心な旧教徒であった彼は、 逆に新教派に対しては不寛容政策を取る。
1568年 ネーデルランド反乱。(アルバ公の恐怖政治によるもの)
1571年 レパント海戦でオスマントルコに勝利。
1579年 ネーデルランド南部が帰順。(ファルネーゼ公爵の手柄)
1580年 史実ではポルトガル併合、「太陽の沈まぬ帝国」となる。
大航海時代4のポルトガル主人公は、この
イベント
の後、祖国復興のために戦う。
1581年 ネーデルランド北部が事実上独立。
1588年 北部を支援するイングランドを叩くため、無敵艦隊を派遣。
アルマダの海戦で壊滅。以降イスパニアの衰退が始まる。
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ドン・フアン・デ・アウストリア
1547年-1578年
カール5世の庶子であり、兄はイスパニア王フェリペ2世。
当時の庶子は聖職者になるのが一般的であったが、ドン・フアンは軍人としての道を選んだ。
1571年 レパントの海戦(Live
イベント
)で西欧諸国連合艦隊の総司令官に就任、圧倒的な勝利を収めた。
プレイボーイのドン・ファンは伝説上の人物で別人
1573年 チュニスの要塞を攻撃し占領。しかしフェリペ2世の命令を無視し解体しなかったため、オスマントルコ軍の反撃を受け敗北。
1576年 ネーデルランド総督に就任。スコットランド女王メアリ・ステュアートとの縁談が持ち上がるが…
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マリア王妃
カール5世の姉
庶子を認めない母(狂女王フアナ)にカール5世とミカエラの子供を処分するように命令されるが…
史実では妹でネーデルランド総督であった。
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タベラ枢機卿
生没不明
トレド大司教フアン・デ・タベラ
イスパニアの宰相
聖職者が宰相を務めることはよくあることで、「三銃士」の敵役リシュリューやマザランも 聖職者である。
イスパニアの国益を第一に考えていたため、それとは関係ないところで戦線を広げるカール5世に悩まされていたらしい。
トレドに建設したタベラ病院は現存し、美術館として有名な観光スポットになっている。
エル・グレコの絵も収蔵されている。
両替商転職クエの納入先
たかだか銀100箱の到着を待ちわびるほど、政府の財政状況は逼迫しているらしい
(フェリペ2世を参照のこと)
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サンタ・クルス侯爵
1526年-1588年
本名アルバロ・デ・バサーン
「スペイン海軍」の父と呼ばれる。
そのためイージス艦の一番艦の名前になっている。
レパント海戦などで数々の軍功を立てた。
無敵艦隊の発案者であった。
実際は予算がかかりすぎて(レパント海戦の7倍)、ファルネーゼ公爵の艦隊を活用することになった。
ガレオンを主力とした艦隊整備を進めるが、激務が祟り過労死
後任の司令官は海戦の経験が皆無であったため、ボロ負けするはめに…
”無敵艦隊”の名前は、実は英国側が皮肉をこめてつけた
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ファルネーゼ公爵
1545年-1592年
パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ
島のパルマではなくイタリアのパルマ(パルメティザンチーズの産地)
母はハプスブルグ家出身、妻はポルトガル王マヌエル1世の孫娘
サンタ・クルス侯爵と共にレパント海戦に参加。
1578年 ネーデルランド総督を命じられ、南部10州をイスパニアに帰順させる功をたてた。
1589年 フランスでヴァロワ朝断絶後、旧教派の貴族がブルボン家のアンリ4世の王位継承を認めず内乱になると、彼はイスパニア軍を率いて旧教派の救援に向かったのだが…
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アルバ公
1507年-1582年
本名フェルナンド・アルバレス・デ・トレド
カール5世とフェリペ2世に仕え新教徒勢力打倒のために各地を転戦。
1567年 ネーデルランドの総督となった。
「血の審判所」と呼ばれた機関を設け恐怖政治を行い、多数の新教徒を処刑した。
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レスカトール
名前の意味はスペイン語で”偽金作り”
アムステルダムの孤児院出身。
踊り子志望の妹のためにギターを始めた。しかし妹は亡くなってしまう。
バレンシアで花形の闘牛士であった。(好きではなかったが孤児院に寄付をするために働いた。)
闘牛士引退後はミカエラのフラメンコのギターを弾いていた。
カール5世の剣の師匠であり、恋敵でもあった。
10年ほど前にミカエラの子供を処分するよう命令したカール5世の母に剣を向け、ミカエラをカリブに連れ去る。
2,3年前にカリブを去り、ギターをアムステルダム教会に預け、セビリア王城に出頭。
その後、処刑され(?)アムステルダムの妹の墓地の隣に埋葬される。
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娘@サンティアゴ
正体はミカエラ、レスカトールとカリブに漂着したときに記憶を失った。
しかしリラの匂いだけは覚えていた。
目の色から”ヤシ”と名付られ、住人@サンティアゴ(おばさん)が母親代わりとして面倒を見ていた。
プレイヤーが”レスカトールの手記”を渡し、記憶を取り戻す。
その後”ヤシ”として生きていくことを決意し、娘に別れを告げた。
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上品な少女@ヒホン
ヒホンの荘園主の娘、本名はマルガレーテ
無愛想な少年とケンカをしていたが、ローラン関連のクエで仲直りする。
実はカール5世とミカエラの娘であり、毒殺されるところをハプスブルク家に仕える侍女であった荘園主の妻が引き取った。
母親が残した香水瓶の香りが好きで、プレイヤーにリラの購入を依頼した。
カール5世が会いたがり、使者を送ったことから出生の秘密を知ってしまう。
その後、父親と共にアムステルダムのレスカトールの墓参りをし、孤児院に多額の寄付を行った。
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エル・グレコ
1541年-1614年
ドメニコス・テオトコプーロス
ギリシャのクレタ島(カンディアがある)出身の画家
エル・グレコ=スペイン語でギリシャ人の意味
故郷の味が懐かしいらしい。(”故郷の香り”,”故郷の味の配送”)
ヴェネツィアに渡り、ティツィアーノに師事し、ヴェネツィア派絵画を学んだ。
ジョルジョーネの弟分
”イタリア語”,”美術”
1577年 イスパニアのトレドに渡り、没するまで宮廷画家として活躍した。
全体的に暗い画面、縦に長く伸びた構図、複雑なポーズを取る人体などが特徴的で、彼の死後は長らく評価されなかったが19世紀に再評価を受け、ピカソなどにも影響を与えたという。(”風変わりな宗教画”)
以下は、ゲーム中の設定
ファルネーゼ公爵に招かれてセビリアに来たが、宮廷画家にはなれなかったため、高い料金(200K)で肖像画の注文を受けて、贅沢三昧をしているらしい。(”謎の無名画家”,”肖像画の配送”)
金銭面で画商とのトラブルが絶えないらしい。(”間延びしていない絵”)
彼の屋敷は美術・開錠上げのメッカであったが、対象(”トレドの風景”)がヒホンの酒場に移動したため現在は寂れている。
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街娘@セビリア
美術に詳しく、芸術家を捕まえては質問攻めにしているらしい。(”謎の無名画家”)